top of page
スクリーンショット 2021-05-18 19.45.22.png
紺色タイトルバー.png

聖福寺の紹介 

聖福寺大雄宝殿(国指定重要文化財)

   万寿山聖福寺は延宝5年(1677年)創建し翌延宝6年(1678年)に大雄宝殿建立。当初は一層の建物であったようで元禄10年(1697年)重建し現在の入母屋造りの二層の建物になったとされている。この時に正面の釈迦三尊像を唐人より寄進される。建物の形は京都の黄檗山萬福寺大雄宝殿に似せて創られていて土間敷きのお堂となり、本尊は釈迦牟尼仏坐像で脇仏は迦葉尊者と阿難陀尊者となります。正面の開き半扉には魔除け・不老長寿の象徴である桃が彫ってあり、仏教と道教の合い混ざった黄檗宗特有(明朝様式)の建造物となっている。

天王殿(国指定重要文化財)

  宝永2年(1705年)建立。堺の棟梁による建物で正面に布袋像、裏面に韋駄天像が鎮座する。山門と大雄宝殿との間にある建物で明朝様式伽藍配置の特徴となる。本山の天王殿は布袋像・韋駄天像と共に四天王像も鎮座しているが、聖福寺のそれは省略して布袋像と韋駄天像のみとなる。明朝時代に弥勒菩薩の化身として布袋尊が人気となり、境内に入ると笑顔で布袋像が出迎え本尊をお参りして帰る時に布袋像が笑顔で見送るという明朝様式の伽藍配置となった。韋駄天像は伽藍を見守る仏像として境内全体を見渡せるように大雄宝殿に向かって鎮座してある。

鐘楼(国指定重要文化財)

 

 

 

 

  享保元年(1716年)に建立される。二階建ての建物で梵鐘は二階部分にある。梵鐘は翌年に再鋳され戦争中の供出を免れて現在まで残っている。鐘楼の棟札には大阪の堺の棟梁と長崎の棟梁の二人が連名で記されていて同等に名前が書いてあるのは珍しい。建物は一旦、堺にて堺の棟梁の下で組み建てて目印を付け分解し長崎に運び長崎の棟梁の下で目印に添って組み建てたようである。国指定重要文化財に昇格まえの調査にて梁や柱等に組み建てるさいの目印が残っているのが確認された。

山門(国指定重要文化財)

 

 元禄16年(1703年)建立。堺の棟梁に依頼して建てられた建物。正面の聖福禅寺の額は黄檗宗開祖隠元隆琦禅師の書となる。八脚門形式の建物で黄檗宗寺院の中でも大きい部類に入る。聖福寺山門の形式は京都萬福寺総門に類似している。

山門には三つ門を構えており、貪(とん貪欲を表す)・瞋(しん憎悪を表す)・痴(ち愚痴を表す)三煩(さんぼん)を解脱する境界とし、一切を空とする空門・一切差別なしとする無相門・その上に願う事を捨てる無願門の三境地に経る為の三解脱門の意味がある。

万寿山聖福寺開山鐵心道胖禅師

 

 

  父親は唐商陳朴純、母親は西村氏でその間に産まれる。異父兄は唐通事となる。

幼少より中国語を学び仏教に興味を持っていたところに長崎の興福寺に隠元禅師が渡来し一目見ていよいよ仏門に入る気持ちが高まり隠元禅師の弟子である長崎福済寺の木庵性瑫禅師に弟子入りして出家する。後に隠元禅師より木庵禅師に京都萬福寺へ上る要請があり木庵禅師と共に萬福寺へ上り隠元禅師と木庵禅師の下で修行する。母親の西村氏の死去の報を受け長崎へ戻り福済寺にて喪に服す。その中で新しく長崎へ貿易で訪れる唐商の要請が多くなりその受け入れ先として長崎奉行に申し入れ許可され万寿山聖福寺が創建される。聖福寺住職を務め途中には東京の木庵禅師開創の瑞聖寺にも出向く等全国を飛び回り瑞聖寺より聖福寺に戻った翌年に亡くなった。行年70歳。

聖福寺方丈(非公開)といろは丸事件談判結審の地

  聖福寺方丈は聖福寺創建の翌年に建てられているが明治期までに幾度か手を加えられている事から文化財指定には成りません。しかしながら創建時からの間取りでありそのまま残っていることから様々な歴史を見てきた建物とも言えるだろう。聖福寺にて幕末に紀州藩と土佐藩(海援隊)とのいろは丸事件の談判が行われている。場所はハッキリとはしていないが談判を行う場所として聖福寺方丈の間が適当であったのではと推察される。当寺聖福寺の末庵の普門院が紀州藩役人の宿舎となっていた、そこに押し掛けた可能性はあるが部屋が狭い為に大人数が入る方丈の間が妥当だと思われる。その事から令和2年11月15日に坂本龍馬を愛する有志により坂本龍馬像が寄贈された。

石門(長崎市師弟有形文化財)

 

  元は立山の金比羅神社と同じ地にあった神宮寺の山門であったのだが、明寺維新後に神宮寺の廃寺に合わせ聖福寺に移設された。石門の華藏院の文字は鐵心禅師の師である木庵禅師の筆によるものという事で明治19年(1886年)当寺に移設されたと思われる。

瓦壁

 

 

   明治期に聖福寺末庵の統合取り壊しの際に捨てられる瓦や鬼瓦等を再利用して造られた壁。

「かわらべい」と呼んでいる。物珍しさから画や写真の題材に使われている。長崎の版画家田川憲氏もこの瓦壁を版画にしている。

ジャガタラお春の碑

  昭和27年に聖福寺観音堂跡に檀家総代上野初太郎氏により建立。俳句会の面々の呼びかけにて建てられたと聞いている。聖福寺には斎藤茂吉がよく訪れていたようで詩も詠んでいる。またお春さんも聖福寺の門前に住み、そこからジャガタラ送りになったとかで「日本恋しや・・」のジャガタラ文を書いたという伝承からお春の碑を建立したと思われる。裏面には吉井勇氏の詩が刻まれている。

市川家供養塔

山門をくぐり天王殿へ向かう途中地蔵堂の隣に市川家供養塔がある。

天保6年に長崎を訪れた際に7代市川海老蔵が建立したとされている。7代市川海老蔵は元7代目市川團十郎で稀代の名優と称されていた。

鐵心禅師塔所

  聖福寺開山鐵心禅師の墓所。大雄宝殿裏に末庵松月院を建立し隠居した建物に生前に自分の墓所を造った。お墓の形は唐人墓のそれに似せている。死期を悟った鐵心禅師は遺偈をしたため日頃愛でていた椿に水を与えて弟子達の見守る中で亡くなったとされている。椿が好きだったようで後に「鉄心椿」と称されるようになった。伝承では藪つばきが好きと聞いていましたが、鉄心つばきは唐つばきと指摘された事がありました。境内には幹が太い藪つばきもあります事から様々な椿を植えていたと思われます。

1.jpg
2.jpg
3.jpg
4.jpg
5.jpg
6.jpg
7.jpg
8.jpg
9.jpg
10.jpg
11.jpg
11-2.jpg
bottom of page